2005年 10月 28日
シリコンバレーへの思い(4) |
A couple of people (笑)から継続のリクエストがあったので、もうちょっとだけ。
闘争本能という言葉があるように、生き物はほうっておくと闘い始めるものらしい。その中で人間は、理性とか秩序とかいった概念を作り出して、平和を模索するようになった。しかしながら現実には、この21世紀になっても戦争をやめられない。それどころか差別もやめられない。やはりそれらが本能として組み込まれているからなのだろうと思う。いわゆる犯罪もすべてそうなのだけれど、理性(法律)によって「これはいけないことです」と決めないと抑止できないのだ。いや、そう決めてさえも抑止できない。ほうっておくと大多数の人間はそっちの方向に走るのだ。
闘うことに話を戻すと、敵、とは異物。共食いするような生物は別にすれば、普通は同じ種(仲間)とは争わないものだ。縄張り争いはしても命までは取らないとう意味で。でも自分(たち)と異なるもので、しかも利害関係が生じる相手に対しては敵意を抱く。本来、いわゆる人間はみんな同じ種のはずなのだけれど、肌の色も違い、話す言葉も違い、信じるもの(宗教など)も違うとなると、もはや仲間とは思えないのだろう。しかも人間は地球上ですごい数に膨れ上がって、資源の取り合いになっている。闘うなという方が無理なのかも知れない。
しかし。様々な不可能を可能にしてきたのもまた人間である。言葉が違っても、宗教が違っても、文化が違っても、共通のゴールがあれば、違う民族が仲良くすることは可能だ。シリコンバレーはそれを証明している。とりあえず、「国」というバリアを取り払うこと。よく愛国心は大事だとか、アイデンティティは大事だとか言うけれど、私はそうは思わない。まあ大事にしたければしてもいいけれど、しすぎはいけない。そういう感情が最終的には戦争につながっていくと思うからだ。
おこがましい書き方になってしまうけれど、日本人はもっとシリコンバレーに、と思うのは、もっともっと多くの日本人にこのあたりを実感して欲しいと思うからでもある。物理的に島国である日本が、井の中の蛙になってしまうのはしょうがない。それを認めた上で、じゃあどうすればそこから脱却できるかを建設的に考えれば、もっと外に出るしかない。そして日本が持っているいいものを世界中の人たちに広めましょう。それにはある程度の「数」が必要だと思うのです。
闘争本能という言葉があるように、生き物はほうっておくと闘い始めるものらしい。その中で人間は、理性とか秩序とかいった概念を作り出して、平和を模索するようになった。しかしながら現実には、この21世紀になっても戦争をやめられない。それどころか差別もやめられない。やはりそれらが本能として組み込まれているからなのだろうと思う。いわゆる犯罪もすべてそうなのだけれど、理性(法律)によって「これはいけないことです」と決めないと抑止できないのだ。いや、そう決めてさえも抑止できない。ほうっておくと大多数の人間はそっちの方向に走るのだ。
闘うことに話を戻すと、敵、とは異物。共食いするような生物は別にすれば、普通は同じ種(仲間)とは争わないものだ。縄張り争いはしても命までは取らないとう意味で。でも自分(たち)と異なるもので、しかも利害関係が生じる相手に対しては敵意を抱く。本来、いわゆる人間はみんな同じ種のはずなのだけれど、肌の色も違い、話す言葉も違い、信じるもの(宗教など)も違うとなると、もはや仲間とは思えないのだろう。しかも人間は地球上ですごい数に膨れ上がって、資源の取り合いになっている。闘うなという方が無理なのかも知れない。
しかし。様々な不可能を可能にしてきたのもまた人間である。言葉が違っても、宗教が違っても、文化が違っても、共通のゴールがあれば、違う民族が仲良くすることは可能だ。シリコンバレーはそれを証明している。とりあえず、「国」というバリアを取り払うこと。よく愛国心は大事だとか、アイデンティティは大事だとか言うけれど、私はそうは思わない。まあ大事にしたければしてもいいけれど、しすぎはいけない。そういう感情が最終的には戦争につながっていくと思うからだ。
おこがましい書き方になってしまうけれど、日本人はもっとシリコンバレーに、と思うのは、もっともっと多くの日本人にこのあたりを実感して欲しいと思うからでもある。物理的に島国である日本が、井の中の蛙になってしまうのはしょうがない。それを認めた上で、じゃあどうすればそこから脱却できるかを建設的に考えれば、もっと外に出るしかない。そして日本が持っているいいものを世界中の人たちに広めましょう。それにはある程度の「数」が必要だと思うのです。
by a-pot
| 2005-10-28 15:16
| SVの暮らし