息子が他界しました |
息子の弘太郎が2018年8月26日(日)、23年半の生涯を終えました。
以下、やや長くなりますが経緯を記します。
8月12日、激しくせき込んだ際に肺の中の動脈の一部が破れ、出血し、血痰様のものが出ました。これはいったん収まったように見えましたが、2日後の8月14日、再び激しくせき込み喀血したため緊急入院しました。
自発呼吸による酸素の供給が不十分だったため、人工呼吸器を導入しましたが、1週間ほどかけて出血も止まり、容体も徐々に回復しました。ICUから段階的に一般病棟に移り、8月25日午前中に退院しました。
帰宅し、ランチを食べている途中で軽く咳き込んだ際にまた喀血したため、すぐに救急車で緊急入院し、人工呼吸器導入し、肺の血管造影をしながら出血していると思われる血管に詰め物をする形での止血処理をしていただき、いったんは落ち着いたように見えました。
しかし翌日になっても肺の内部からの出血は止まらず、血液循環が悪化するとともに肺動脈圧が上昇し、心臓、腎臓などの機能が低下していきました。肺に血液を送る右心室が負荷により肥大し、左心室を圧迫するまでになりました。心停止となり、30分以上に渡って心臓マッサージを行っていただきましたが回復の見込みなく、8月26日19:45に死亡が確認されました。
持病の肺動脈性肺高血圧症(PAH)から誘発された肺胞出血が死因です。肺高血圧症のバックグラウンドには、おそらくFMD(FibroMascular Displasia)/繊維筋性異形成と考えられる、全身の動脈の異常がありました。とりわけ弘太郎の肺動脈は長年に渡り、正常値の4-5倍の血圧にさらされてきたため、ある意味限界に達してしまったのかも知れません。
弘太郎は10年以上に渡り複数の難病を抱えていたため、本人はある程度の覚悟を持ちつつ生きていましたし、それは家族もある程度共有していました。だとしても、あまりにも急な展開でした。いろいろな意味で、本人にとっては理不尽としか思えない人生でしたが、日々感情を高ぶらせることなく、傍目からは平穏に見えるような生き方を続けていたことは、本当に強い精神力だったと思わざるを得ません。救急搬送された際にも、すこぶる落ち着いていました。付き添った妻に、「もうだめかも、ごめん」というようなことをつぶやいたそうです。
残された家族として悲しむ理由はいくらでもありますが、いくら悲しんだところで弘太郎は戻りません。見方を変えれば、23年半という短い人生の中でも、彼なりに楽しんでいたことはあります。特に大学入学後はダーツにはまり、2年生の終わりにプロテストにも合格しました。昨年はU-22で準優勝、今年はアジアチャンピオンシップツアーにも参戦し、韓国ソウルでの大会にも遠征しました。体力づくりのためにロードバイクを購入し、不忍池周辺を走るのを楽しんでもいました。
将来はダーツの本場であるロンドンに行くことを目指していました。結果的に考えれば、カリフォルニアに10数年住んだことは英語の壁をなくすため、帰国生として早稲田大学に進んだのはダーツと出会うためで、あとは実力を磨けばすべてはロンドンに乗り込むためだったといえるようなプランだったといえます。
通夜および葬儀は、身内のみで行わせていただき、本日9月1日、遺骨となって帰宅しました。ただ両親としては、私たちの知らないところでの弘太郎の一面やエピソードなどを教えていただきたいとの思いもありますし、お友達の中でお別れをしに来たいという方もおいでかも知れませんので、下記のとおりお別れ会を行いたいと考えております。軽食と飲み物とともに、お待ちしております。どうぞ手ぶらで、普段着でお越しください。
あまりに急なことで、弘太郎のSNSアカウントにログインできないため、周知が不十分かとは思いますが、適宜拡散いただければ幸いです。
記
赤間弘太郎 お別れ会
日時: 2018年9月24日(月)14-20時
出入り自由です。上記の時間内でご都合つく時間にお越しください。
会場: A-POT(株)(変な名前ですが私が営むレストランです)
東京都千代田区神田司町2-17 あけぼのビルB1
お問い合わせ:apotdining@gmail.com